昭和44年06月27日 朝の御理解



 御理解 第99節
 「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」

 無学で人が助けられぬということはない。無学とは無論学問が無いということでしょうけれども。まぁ何にも出来ない私ということであってもいいとね。何んにもしきらんさばけてもおらん気が利いてもおらん、それでも助ける又は助かる事が出来ると、言う事をまぁ言いますね。助ける助かる事が出来る。学問はあっても真がなければとこう言うておられるます。如才なく何事も人一倍の事が出来る。出来てそのう真がなければとこういう、なら真がなければ、ここに真がもとなり要求される訳ですね。
 信心さして頂く、結局真のになり真の人になりたい、真の人になりたいと言うその願いをもって信心がしなければ、そのう出来る訳がならんということが分かります。学者が身を食うということがあるが。学問はあっても難儀をしておる。いわゆる是はここのところを学者ということは、まぁ何んでも出来るとでも言いましょうかね、お金も持ってござる力もある、何させても抜けた事がないと言う様な人でもです。やはりそんならお金があってもやはり難儀しておる人があるのですよね。
 お金のために難儀をしたり、健康の為にその健康が却って災いをしたり、いわゆる自分自身が助かってないという人は沢山あります。却って学が身を食うという、却ってその健康が自分の身を不幸せにするということなんですよね。少しばかり人よりも人一倍の事が出来る。それが災いの元そういう実例は沢山ある事ですよね。自分が助かるとかしかも人も助かると、ここはもちろん取次者に対するでしょうけれども、これは取次者取次を受ける者、双方の事を今日私はここからこうして頂いとる訳ですけれどね。
 助かるということは取次の者だけじゃ出来ない。やはり取次がれる者も助からなきゃならんのですから。助かるということはいわゆる真がなければ助からん。いわゆるここでもやはり真が要求される訳ですね。確かに学問はあっても難儀しておる者があると言う様に、お金はあっても難儀をしておる者があると。力があってもそれが災いの元になっておるということ。此方は無学でも皆なおかげを受けておる。此方というのは金光大神のこと。私は何んにも出来んのだけれども、私自身も助かっていきよるが。
 私自身に集まって来る、取次を願う氏子も助かっておるということ。ここでいうなら私と言うても良い。本当に私くらい何にも出来ん者はないと思うんですけれども、それでもやはり私は助かっておる。また私の周辺にそのう助かりを求めて来る人達が、やはり助かっておる。それはそんならどこにあるかというと、私が真の人という訳ではないけれども、いつもが私の心の中にあるのがね、真を求めておるからなんです。いつも私はまぁひとつそこんところをね、ひとつふたつと言う風に変えて見て下さい。
 私はいつも自分のしておる事が本当な事かと、いわゆる真実な事かと言う事を、いつも自分の心の中に追求致します。これはもう私は絶えず思うんですけれども、人にお茶一服差し上げるでも、ひとにまぁ昨日なんかそれで昼の御祈念が終わった後に、あとちょうど四、五人残っておった方達に、ちょうど氷をかいてるんで氷水を、まぁ裏へきて氷水を一杯頂いて行きなさいとこう、そして私はそのう思う事です。私はこりゃ不公平な事をしてるんじゃなかろうかと、折角氷水出すなら皆んなの人に出しゃ。
 出そうといやぁいいのに、ただ四、五人の人にだけに言うておるがこりゃ不公平な事じゃなかろうか。けれどもよくよく自分で追求してみるから、いや不公平ではなかったとこう思うんです。一番最後に残っておられる何人かの人達だけを、私はに言うたのですから、最後に自分の好きなもんだけちょっと待っときなさい、残んなさいと言うて残した訳じゃないのですから、これは不公平じゃないなと自分でも思うのです。だからいつも自分でそのう公平であるかどうかと。
 いわゆる不同の信者に不同の扱いをすなと仰るから、いつもそのう不同そういう不公平な考えをして、ただ自分の好きな者ばかりを大事にすると、言った様な事があってはおりゃしないだろうかと、言う様な事をいつも自分の心に求めます。これがですふたつですね。自分がこの人に厳しく言うと、やかましく言うておる。昨日なんかもある方がお取次されることに対して、私はもう厳しくようもあんな厳しい来とが言われたと思う位に、厳しい事を言うておる。
 それはねけれども私がその人が憎いからそういうことを言うておるか、そういう私はね本当にその人に対するところの善意がね、そういう厳しい事を言うておるんだということを、後で反省してみてから思って、あぁこれで良かったとこう思うのです。相手が例えば腹を立てて怒ってもです、必ずそれはおかげを受けると。いつも自分の善意でいわゆる自分の信心から言うておるかということを反省するこれが三つです。私が働いておるというかね、私の御用というか、私の存在が果たしてですね。
 皆んなの為になっておるであろうかと、あんまり漠然としたような事ですけれども、私はそんな事を心の中にいつも思うのです。今日はみやすうみやすうこの九十九節を頂いておる訳ですよね。そして真を追求しておる訳です。無学でも人が助からんことはない。無学ということは何んにが出来、何が出来なくても助からん事はないように、自分自身もたすかる事が出来る。自分はあれが出来んからこうしきらんから、助からんということはないということを申し上げておりますたいね。
 そこでここのこの九十九節の真が無ければ人が助からんとか、又は自分自身も助からない、それは真がないからだとこう言うておられます。そこで私共信心をさせて頂く者は、いつもその真を追求しておらなければならない。そこで私は真ということはどういうことか、最後に学問はあっても難儀をしておる者があるということは、いろんな才能を持ち、お金を持ち物を持ち力を持っておっても、難儀をしておる者があるといういろんな例を申しましたです。
 此方はね学問は無いけれども人が助かっておるというのは、私しゃなぁにも出来んのだけれども人は助かっておる。それをなら金光大神は言うておられるから、こりゃ私自身大坪総一郎の事を思うてみてですね、私の周辺に助けを求めて集まって来ておられる方達が、皆んな本気で助けを求めてみえる方達が、本気で助けを求めておられる方達が、助かっていかれておるということ。そこでそんなら私がなら真だから皆んなが助かっておるかと言うと、私が真の人と言う訳ではないですけれども。
 私はいつもその真というものを追求しておると言う事を、今日はみやすう聞いて貰った。私はならどいう真追及しておるか、本当に真と言う事の追求、真実の追求、真実の追及、ここんところにそのう心を緩めない気を緩めないと言う所に、私が助かりここでは人が助かっておる、おかげが受けられておるんだなぁと言う事を申しましたですね。それを私がみやすうな例えばですよねぇ、いつも少しあんまり使わない言葉をもって、私の心の求めておる状態を聴いて貰いました、四つに分けて聞いて貰ったですね。
 私が言うておる事しておる事は真実かどうか、それをいつも私は神様の心に叶う事かどうかと言った様な事を、そこに真実を求めます。私は皆んなに対して公平か鋭く自分を見つめます。自分が今こう言うておる事はですね、善意からこの人が助かってもらわなければならんから言うておる事かどうか、私は昨日その事を非常に深刻に二、三人の人に申しましたんです。それこそ普通では言えない様な事を申しましたんです。それではあんたが助からんとね。
 そして私はこの人が憎うて言いよるじゃろか、感情で言いよるじゃろかと反省してみてです、いややっぱり自分の心の底から生まれて来る、助かって貰わなければならんから言うておる言う事に答えが出た時にです、はぁこれで良かった相手はよし腹を立てておっても、それで良いんだと自分にこうね。自分のしておる事がです、自分の言うておる事が人の為になっておるかどうかと、こりゃもう当たり前過るごと信心しとるなら、当たり前過る程しの事ば、こう箇条書きに書いて見るとこういうまぁ事になるんです。
 私の心の上に、だから私共はいっもそういう鋭い反省を私は持たなければいけないと思うんです。私はそう言う風に私はあのう思うての日々、それが私は真を追求していっておるんだという事です。真がなければ人も助からん、勿論自分自信も助からん。そんなら真とはということを、ならみやすう申しましたですね。明治天皇の御咏の中にですね「眼に見えぬ神の心に叶うこそ、人の心の真なりけり」というのが有りますね。「眼に見えぬ神様の心に叶うこそ人の心の真なりけり」。
 本当に真というものをそのものズバリに、このお咏の中に表現しておられると私は思いますね。信心させて頂く者がです、本当にそんする事言う事の中に真がなからなければいけませんです。昨夜でした。昨夜のいつも椛目の田中定男さんがあぁしてお参りして来ます。昨夜はもう真剣そのもので、「ここで先生今日は私は命拾いをしました。」ちいうてからここでお届けをするんですよ。バスの停留所におったらです酔っ払い運転か、そのう居眠り運転か知らんけれども。
 とにかくその定男さん向 かって突き上げて来たそうです。もう本当に一尺位じゃったな。もう先生私しゃ声が出らんもんじゃけん、心の中で「金光様」ち心の中で言うちゅうんですよ。もう私今日はもう本当に死んだと思うたち、自分がそのう真っ青になってここで言うんです。そして「先生私が死んだらね、親が困る。子供も困る。」と言いました。私はもう本当に本当に声上げて泣きたいごたる感動を覚えましたです。私が死んだら今死んだらですね親が困ると。子供も困ると言いました。
 神様にお礼を言うて下さいて。はぁ本当にお礼を申そうと、しかし定男さんおかげ頂いたね。あんたのね私しゃ今のその一言、親が困る子供が困るというその心が、あんたおかげ頂くよと言うて申しました。沢山働いている人達があるばってん、本当に親が親が喜ぶ事のため、親が立ち行く事のため、働いておる子供がどれだけおるだろうか。自分の洋服を作るために自分の事にゃこうするけれども、親には小遣いもやらんちゅうような子供がどのくらいあるか分からんですよね。
 本当にあの人が奥さんをもろうたと言う事だけも、唯大変なおかげをこのう頂けたと言うだけでも大変なおかげだなぁと、私信心のおかげっていうこと。これ見ただけでですね、これ見ただけでもうそれっで誰でもおかげを受けられる事が分りますよ。とてもこりゃ私共普通でいうなら、とても定男さんに嫁さんが来るてんなんてん、とても私は本当私は思うとりましたですたい。ところがどうですか嫁さんもろうただけじゃない、子供迄本当に可愛らしい、キューピーさんのごたる子供が出来とるです。
 今お母さんが毎日昼の御祈念におんぶしてやって来ますがね。本当にもう本当におかげが頂けれると言う事を、こりゃ実証しておると私は思うですね。この人達一家がいわばあの人達なりに細々ながら助かっていっておるということ。もう家内がもうおっ母さんおっ母さんと言うて非常に大事にするんです。しかもあのう夫婦で働きに別々ですけども働きに行って、もう恐らくは定男さん達の給料というものは、もう人の半分以下でしょうと思うです。
 自分でも給料がそれが自分が検討がつかん位な、いわばそのう状態ですけれどもですね。結局そのう自分が働くということによって、親が立ち行く今子供が出来てからは、んなら私が死んだら親が困る、子供が困るとこう言う。そういう自覚なんですよ信心とは。私が言う真とはね、それが真なんですよ。親を思うておる子供を思うておる、自分がおらなければ自分が働かなければ親が困るという、それが真だと私は思うんです。説明は例えば言うても分からんだろう。
 分からんなりに真を身につけていきよるんだと私は思うのです。先日なんかは本当に言うていいかどうか分からんですけれども、末永さんと話したがね。どうしてこげな事が出来るじゃろかと言うて、大祓式の御祭典費がちゃんとお供えしてあるですよ。それもそのうびっくりする位金額です。あぁいう生活をしよって、どうしてこういうことが出来るだろうかと私は思うです。真なんです。そこから言うてもでも、ならお互いにここに御神縁を頂いている人達は、もっともっとおかげが頂けなければならない。
 そのおかげこそ私しゃ神様のこの信心をさして頂いておる者の証しだと思うです。椛目の田中さんなんかがあれで嫁御の来てがあったと、しかも後が具合よういっておると、しかもあぁして子供迄出来て、まぁ働いておるということは、これはやっぱり信心しとるけん、おかげ頂いておるといわにゃおられない、私は証しを立てておると思うんですよ。だからお互いがですね。
 本当に信心させて頂くなら、成る程信心しござるけん違う。信心しござるけんで家の中が違うというですね。そういう私は証しを、本当に立ててゆかなければ駄目だと思うんです。唯おかげおかげ自分のおかげだけに、焦点を置くというのじゃなくてです、本当に自分の言うておる事が、しておる事が真であるかどうかという、それは定男さん達の場合、本当に自分のしておる事。
 言うておる事が真であるかどうかということを、思う事はなかろうと思うけれどもです、けれども眼に見えぬ神様の心に叶うておるです。親を思う一心もうこれがもう真です。私の信心でもそうです。ただ親に喜んで貰いたいばぁっかりの一心が。段々こう成長して来たんです。だからその事が真であった訳なんですよ。だから神様がおかげ下さったんです。だから真ということは難しい事ではない事が分かります。
 昨夜私はその事を夜の御祈念に、皆さんに聞いて頂いたんですけれどもです、私がおるということによって 親が助かっておる。子供も助かっておる。もし私が死んだら親が困る、子供が困るということがです、これは信心の上で私はこれを頂いたらです、私がおるということがですね、神も喜ぶび氏子も喜び金光大神も喜びじゃと言った様なですね、自分の助かっておるということがです、自分の働きが出来ておるということがです、神様の助かりにつながり、子孫の者が助かって行くと言う事に。
 繋がっておる様な信心させて貰わなければいけない。そういう私はあのう御理解を説かせて頂いておる時に、ここで盛んに頂く事が、あのうテレビの有名なタレント中にあのう巨泉という人が居るでしょうが、あの巨泉というあの字をね次々とここで頂くんですよ。巨泉、巨泉ね、巨大な泉、大きな泉ということでしょうね。もう水が枯れる事がない。その湖に一杯に水が讃えられておる。
 本当に限りのないおかげを、限りなく受けていくということは、私共がいっつも真であるかどうかと。自分の生き方がです果たして自分の今思っておる事が、神様が喜んで下さっる事だろうか、自分の今しておる事がです、実はこれは不公平な事ではなかろうか、神様がお嫌いなるの様な事じゃなかろうかと、私は反省している。そこからですね、真を追求して行く。
 先日25日の婦人会に引き続いて幹部研修会でございましたが、その時に秋永先生がみえておりましたけれども、他の御用でちょっとそれに参加される事が出来なかったんです。それが秋永先生が居りますと前の月もおりませんでしたけど、ちょうど確か竹内先生が見えておりましたから、非常に会のひとつ盛り上がりがあったんですね。今度も秋永先生がおりませんでしたから、何んかこう盛り上がりがないと言う様な。私は昨日その事を高橋さんに話した事ですけれどもね。
 あのう共励会なんかはというものはね、立とうごとないちゅうごたる雰囲気が生まれてこなければ嘘よ。ちゅうて私がいうてましたが、ならこれでもう解散しましょうかと言うても立たない。もう尽きぬ程の有り難い話が次々出る。これが共励会なら共励会の雰囲気でなからなきゃならんのに、今度のこりゃ共励会にゃならこれで切りましょうかねと言ったら、待っとったように皆んなが立ち上がったでしょうが。だからそれは盛り上がりじゃなかった証拠なんです。
 そこで私はあのうどう言う様なところにですねぁ、そのう秋永先生がおるとそういう盛り上がりが有るかということをです。昨日高橋さんと話したんですけれどもね。高橋さんが一人おられましたですね男では。とにかくね神様の御信用が違うちゅうのです。例えば百円札でも五百円札でも、さほど形は変わらないけれどもね値打ちが違うでしょうが。五千円札と一万円札というたら、裏から見るにゃちょいと変わらんごとしとるけれども、実際の値段が違うでしょうが。
 それはそのう国家が一万円には一万円、五千円には五千円のちゃんと保証がしてあるからなんです。裏付けがしてあるからなんです。こうやってねお互いならんどる、人間のいわば顔というのはそげん変わりはないでですね。顔の真ん中に鼻があって、目が二つあってその下にこう口がついとるちゅうんですけん。器量の良い悪いはあってもです、そげん変ったもんじゃない。だからこれは白骨にどんなってみなさい、見分けがつかんごとなってしまうように同じなんです。
 けれどもそのその値打ちが違うでしょうが、あの人が一人居ると部屋の中が明るうなるという人がありましょうが、秋永先生が共励会におると、もうその共励会場全体が盛り上がってくるんですよ。神様の御信用が違うからです。そしたら神様からですねどにきが違うじゃろかと私が思うたんです。その事を光昭にも話した事でしたけれども。どこが違うじゃろうかと。秋永先生は心が美しいじゃろう、自分達は汚ないとじゃろう。と言うのではなくてですね。
 どこにそういうそのう例えば秋永先生が、五百円札であるなら私共皆さんがなら百円札としましょうか五倍は違う。皆さんが千円札なら秋永先生が一万円札、だけの言わば値打ちがあるんだと、ならそのどこが違うかと言うとその神様の保証が違うんだ。神様の信用が違うんだと。なら秋永先生は何故信用受けておるかと、私共が持っておる汚いもの持っているだろう、言う事する事がそんなら皆んな気感に適うとる事ではなかろうけれどもですね。そしたら神様からねこう頂いたんですよ。
 あのう大幅の信心ということを頂いたんです。大幅幅が広いちゅう事。ははぁそんなら毎日毎日日参り夜参りさして頂き、熱心な信心をしておるから神様の信用が有ると言うのじゃなくて、その人の信心の焦点それが違うのだ。だから秋永先生が言う事はいつっも教会を中心でしょうが、幅が違う。いつも合楽の信心が現在の教団の中に入っていなければ、教団の本当の発展はないと言う様な願いを持って、合楽の信心を他所に行っても、一生懸命こう宣伝される訳なんです。
 それが教団の立ち行き本当の立ち行きの為にゃ、合楽の信心がどうでも入ってゆかねばならんと言う様な願いを、いつも心の中に持っておるのです。ですから幅が違う訳です信心のスケールが違うんです。ははぁそこにですそこにやはり五千円札と一万円札の違いが有るんだなと。そこでならこれは秋永先生としてはその内容がです、そのま内容が今日私が申しましたようなところになって来るところに、大幅のおかげが受けられるだろうと私は思います。巨泉のおかげを受けられると思います。
 ですから例えばならその大きい事だけを言うておる、しておるだけじゃいけん。その内容がです、今日の真でいっぱいでなからにゃいかんです。だからあのう私はその事を話した時に何人もの方が、秋永先生と自分の信心のどこが違うじゃろうかと、思うた人がいくらもやっぱあったらしいんです。それで分かりましたというてから明くる日、お届けされた方が何人かありました。けどう言う風にわかったか聞きませんでしたけれどです。秋永先生が願うておる事お互いが願うておる事の幅が違うです。
 はぁ私の病気を治して下さい、私一家が立ち行きますようにと。言った様な事だけではないという事。その為に例えばある場合は仕事もなげうち、自分の事をなげうって、んならそういう幅の広い御用の為に、お使い回しを頂きたいという願いが、神様の御信用が皆んなと違うところじゃなかろうかと言う事を、まぁ分からせて頂いたんですけれどもね。ならお互いの信心がですね。今日私は定男さんの信心をもって、いわば真ということを申しましたがですね。
 その真がです本当にね私はだんだん成長し、大きゆうなり私がね親に喜んでもらいたいばっかりという一心が、その親のいわば親がだんだん変わって来た様にですね、お互いの信心の成長もそこに幅が広うなっていかなければないけません。けれども私がもし居なくなったら、教会が立ち行かん。教会が困られる親先生が困られる。勿論自分の子孫も困るんだと。子供達も困るんだという定男さんのその言葉をですね、先生私が今もしね私が死んだらです親が困る、子供も困るとこう言う。
 そういう自覚が私はお互いね薄いのじゃなかろうか。そういう自覚を持たなければいかん。合楽の信者としてはですそういう自覚。そしてそのうおかげの証しというものをです、立てていかなければならない。より良い話をする時に本当に定男さんはおかげを頂いちゃる。本当に信心しよりゃ本当おかげ頂くねぇ、最後的にゃ必ずやっぱおかげを受けられるもんだなぁと言う事を、田中さんとこの一家を見ただけでも分かるのである。それこそ気の利いた子供は五人、七人持っておっても。親が難儀しておるとこもある。
 いうなら定男さん当りの様に働いて、しかもですね働き高というものは人の何分の一かも知れません。それでも子供を養い家内を養い親を養い、細やか乍ら神様の御用にも立たせて頂こうという願いを持っておる言う所に、私は神様がそういう定男さんの真に、あの様なおかげを下さるんだと思うのです。だからどうぞ皆さん定男さんを手本にしてくれというのじゃないですよ。皆さんの場合はもっともっと垢抜けした。
 もっと幅の広い意味合いに於ての真を求められると、皆さんは思うてみなけりゃいけないと思うですよね。真がなければ人は助からん。同時に私ここでは真がなからなければね、人が助からんだけではない自分自身も助からんということをですね、今日九十九節の中から今日そのように頂きました。それに定男さんの事。それから私がやさしゅうやさしゅう私の真の追求を箇条書きで申しましたですね。
 そして明治天皇の御製をここに引用しましたですね。「眼に見えぬ神の心に適うことこそ、人の心の真なりけり」と金光様の信心は、その真を追求して行く。誰が見ておらんでも、誰が聞いておっておらんでもいいのである。果たして私共がその真をどのくらい、真剣に求めているのであろうかと思うただけで、成る程おかげが受けられん筈だなと、言った様なものが出て来れば有り難いですね。そこからひとつ新な信心にならせて頂かにゃいけんと思うのです。
   どうぞ。